02


ふと目を覚ました時、そこは見知らぬ部屋であった。

「ん…?」

口から疑問符が零れる。掛け布団を押し退け、ゆっくりと身体を起こしてから、あぁそうだったと目覚めたばかりの頭を回転させて思い出した。

「ここ、あいつの部屋か」

しかし、自分はソファで寝たはずだが。またしてもベッドに運ばれたのか。
司は妙な居心地の悪さを覚えて眉を寄せた。

「…まぁいい、起きるか」

ベッドから下りて、リビングへと顔を出す。だが、そこには誰もいなかった。

「九鬼?」

人の気配もしない事におかしいなと首を傾げつつリビングに入れば、テーブルの上に何やら書置きと思われる紙が数字の刻印されたシルバーのカードと共に置かれていた。カードの方はこの部屋の鍵か。司は紙を手に取り、目を通す。

『悪いが先に出る。朝食を食べるなら食堂に行け。休むなら部屋で好きにしてろ』

少しばかり癖のある字でそう書かれていた。

「律儀な奴…何も謝る事なんてねぇだろ」

言いながらそこで初めて室内にある時計に目を向けた司はその表示に目を見開く。

「九時半!?嘘だろ?俺が寝坊したのか…?」

司の寝かされていた寝室は遮光カーテンのせいか暗かったし、まったく気が付かなかった。
そういえば寝室を出てからやたらと窓の外は明るかった。司はリビングの窓に目を向け、考える。

この時間既に授業は始まっている。むしろ今から急いで登校した所で一限は終わり、教室に辿り着く頃には二限も始まっている頃だ。それに何より、その前に朝食を食べるなら食堂に行けと書置きには書かれている。今から朝食を食べに行き、登校するとなれば確実に二限も受けられない。

司は初めての失態に戸惑いつつ、とにかく学校に行く支度を整えようと動き出した。

本当ならば朝食ぐらい食べなくても良かったが、九鬼が食堂に行けと書置きを残していたので、司は無意識にこれは食堂に行かなくてはならないと自然と思い込んでいた。

部屋着から制服へと着替えた司は九鬼が置いて行ったシルバーのカードキーを手に部屋を出る。寮一階奥にある食堂へと向かった。
そして、昨夜と同じく食券機に向かおうとした所で、昨夜もカウンターにいた年配の女性職員に呼び止められた。

「神谷くん、おはよう。朝食を食べに来たのよね?」

「おはようございます。そうですけど…」

「それならもう用意してあるから。ちょっと受取カウンターで待っててもらえる?」

「え、はぁ…」

何が何だか分からなかったが、司が受取カウンターの前に移動すれば、サンドイッチと熱々のコーンスープ、カットされたリンゴ。ヨーグルトが乗せられたトレイを手渡される。

「これは?」

「九鬼くんが朝来た時に注文していったのよ。後で神谷くんが来たら出すようにって」

そういえば昨夜も食堂に一緒に来た時、九鬼は野菜も食えとか言っていたな。

「あいつはまた…」

勝手にとは思ったが、何故だか怒るよりも先にこそばゆさを感じてしまい、口元が緩んだ。
別に野菜も嫌いではないしと、心の中で言い訳をしてそのトレイを手にテーブルに移動した。

席に着いて落ち着いて食べ始めてから気が付いたが、食堂はこの時間に関わらずちらほらと数人が司と同じく遅い朝食を食べている。
時折、食堂の職員から声をかけられている所を見るに、司と同じく純粋に寝坊した生徒や低血圧気味の生徒、体調が優れない生徒達がいるようだ。中には明らかなサボりと思わしき生徒と、様々な理由を持つ生徒達がいた。

「ごちそうさまでした」

朝食を完食して、昨夜九鬼から教えられたトレイ返却口にそう声を掛けて、トレイを返却した司は食堂内を見回す。食堂の中に居る生徒達の中でもとりわけ元気の有り余っていそうなサボりの生徒に目を付けて近付いた。

「おい、お前」

「あ?って、アンタか!脅かすなよ」

声をかけた生徒もネクタイを付けていないので学年が分からないが、どうやら向こうは司の事を知っているらしい口振りだった。それならば話は早いと、司は口角を吊り上げて言う。

「暇なら九鬼のいる教室に案内しろ」

「九鬼さんの?あー、別にイイっすけど…」

「何だ、歯切れが悪いな。言いたいことがあるならはっきり言え」

良いと了承しておきながら語尾を濁す男に司は鋭い視線を投げる。すると男はそんな司の顔を見返して、じゃぁ一つだけと前置きしてから言葉を続けた。

「殴り込みとかじゃないっすよね?」

「はっ?」

その台詞にはさすがの司も予期していなかったと、驚きで目を丸くする。

「あー…その、たまーにいるんすよね。九鬼さんに逆らう馬鹿な野郎が。まぁアンタは最初から違うって分かってんすけど。念の為」

言いながら席を立った男に司は確認する様に聞く。

「そんなにあいつは恨みを買ってるのか?」

「いんや。どっちかっていうと逆っすよ。うちでは結構慕ってる奴の方が多いっすよ」

「…だろうな」

たった一日だが、厄介者である自分をここまで面倒見てくれる奇特な奴だ。司は男の口から出た九鬼の評価に知らず口元を緩めていた。

「あ、そだ。もう一つ聞いても良いっすか?」

「何だ」

食堂を出て、並んで歩きながら男が再び問いかけてくる。
どうやらお喋りな男らしい。
司は頷いて会話を続けた。

「アンタ、身体は大丈夫なんすか?」

「別に普通だ。今日は特別、起きたのが遅かっただけだ」

こんな時間に食堂にいた事で、体調の心配をされたかと司は問題ない事を男に返した。

「ふへぇ…。もしかして、寝かせてもらえなかったんすか?」

すると何故か妙な相槌を打たれ、質問が続いた。

「いや、ベッドでぐっすり。起こしていきゃいいのに、あのお人好しが…」

「それはほらぁ、九鬼さんも気遣ったんじゃないんすか?」

「別にそんな気遣いは必要ねぇ」

「まぁまぁ。…でも、翌日に響かないようにしてやるって大事にされてるんすねぇ」

九鬼を知る人間からそうしみじみと言われると司もやはりそうなのかと実感してきて妙な座りの悪さに口を閉じた。

確かにソファで寝るよりはベッドで寝た方が疲れはとれるし、そのせいで初めて寝坊というものをしてしまった。

 




一方、司より先に登校していた九鬼は教室では無く、自治会室と呼ばれる部屋にいた。
司が寮で寝ている間に必要な情報交換を各学年の代表者と自治会メンバーとを集めて行っていた。

「んで、本校舎の方はどんな様子だ」

九鬼の視線の先で鈴鹿と呼ばれる小柄な生徒が昨日に引き続き、落ち着いた声で報告を上げる。

「神谷会長の不在に気付いた一部生徒達がうるさく騒いでいる様ですが、風紀委員に取り合う様子はありません」

「そりゃそうだ。司の言う通りなら、それも筋書きの内なんだろ」

風紀は周りの雑魚共より先に台風の目を潰しに動いているのだろう。

「生徒会の連中は?」

「編入生にアピール合戦をしています。もっとも編入生の彼も満更ではなさそうでした」

「司のことは?」

「それが聞けよ、九鬼!信じらんねぇ快挙だぜ!」

九鬼と鈴鹿の話を遮る様に会議用の机をバンッと強く叩いた、髪の毛がプリンの様にグラデーションしている生徒が立ち上がって興奮した様子で言う。

「うちから本校の方に侵入できねぇように巡らせてある網に初めて獲物がかかったみてぇなんだよ!」

何故か楽し気に話す男は、司が東校舎へと開かずの渡り廊下を突破して現れたと知った時もやたらと興奮した様子であった。

「甲賀。もっとわかりやすく端的に説明して下さい」

その姿を見ても動揺する事無く冷静に鈴鹿は淡々と話を進める。

「だからさ、昨日、九鬼から誰も東校舎に入れるなって言われて。網だけじゃ生温いかと思って、侵入者撃退用に元から張ってあった網にスタンガン並みの電気を通しておいたのよ」

誰もそこまでしろとは言っていない。九鬼の注文を良いように解釈した甲賀が自分の趣味に走ったのだとその場にいた誰もが思ったが、話が止まると困るので誰も口にはしなかった。

「誰かが引っかかれば、直ぐに俺のスマホに情報が入る様にしてたんだ」

甲賀の説明曰く、今朝方になってスマホが振動し、東校舎へと侵入しようとした人間がいる事を知らせてきた。その上…

「動体検知で録画できるカメラも垣根の中に隠して設置しといて良かったぜ!ほら、こいつが侵入者の顔」

何を凝っているのか、カメラまで設置していたその用意周到さに呆れを隠さず皆は甲賀から向けられたスマホの画面に目を向けた。
そこには、金網に手で触れたのか、手を突き出したまま地面に引っくり返っている小柄な生徒が映っていた。心なしか亜麻色のふわふわした髪が逆立っているようにも見え、よく見なくても口は半開きだし、白目を剥いている。

「完全に気絶してるっすね」 

誰が見てもその通りだ。
九鬼は後輩の言葉を聞き流して、鈴鹿へと確認を取る。

「こいつがそうか?」

「えぇ、間違いなく。編入生です」

と、言うことは編入生は司の事を諦めていないのか。
そう考えると自然と九鬼の眉間に皺がよった。

「…とりあえず、甲賀。良くやった。こいつは不法侵入未遂の証拠になるな」

「だろ!本校の風紀のパソコンに送り付けるか?」

何故か嬉しそうに先を急がせる甲賀に九鬼は少し考えてから、頷く。

「そうだな。不正の証拠は多くあった方が解決も早いだろ。ただし、分かってるな?」

「もっちろん!足のつかねぇように上手くやるさ。そこは信用してくれ」

甲賀は基本、機械弄りを得意とした変人だ。中でも機械と幽霊の相性は抜群なんだとか言って、あちこちにカメラを仕掛けては幽霊を撮影するんだと、一度建て替えられた事のある本校舎より歴史の残る東校舎に自ら進んで入って来た男だ。また、この男が知らぬ内にあちらこちらにカメラを仕掛けるものだから、校内と寮内の風紀が守られている部分もある。なにせ何かすれば、カメラにはバッチリ証拠が残るのだ。

「しかし、神谷会長は何故、そこまで編入生に執着されているのだろうか?」

「あー、そりゃ、あれじゃね?本校で顔のいい奴ばかり侍らせて喜んでるなら、ただの面食い」

「会長も九鬼さん並みに顔がいいっすからねぇ。あ、別に顔だけがじゃないっすよ!九鬼さんはちゃんと顔も性格も良いっすよ!」

ごちゃごちゃと話し出したメンバーに九鬼も司が追い回される理由を考える。

流しっぱなしになっていた動画を視界に収めたまま、あれこれと司が編入生に纏わりつかれる理由を考えていた九鬼はその時ザザッとその動画にノイズが混じり始めたことに気付き、無意識に思考をその動画に切り替える。

「そういや、この編入生、この後どうしたんだ?」

「自力で帰ったのか?」

「あー…そこはまだ確認してないんだ」

ただ、俺の張った網にかかったのが嬉しくてと、その動画の撮影者は周りからの質問にそう答えて、動画を早送りしようと手を伸ばす。しかし、それを九鬼の鋭い声が遮った。

「待て!そのまま流せ!」

何かがおかしいと九鬼は乱れ始めた映像に鋭い視線を投げる。

そしてー…

間抜けな格好で口を半開きにしたまま地面に仰向けに転がっていた編入生の身体の中から、ぬらりと何か黒い影のような物が立ち上り始める。

「―っは、マジか!?」

動画の撮影者の口から驚きと、隠しきれていない嬉しそうな声が漏れる。
他の者達はただ目を見開き、その映像を凝視していた。

その黒い影の様なものは人の様な形を作ると、ぐるりと周囲を見回すような動きを取り、最後に気絶して地面に転がる編入生の顔を見下ろして、けたたましく哄笑し始める。

『あーっ、はっはっ!いいざまねぇ!…タカノリ、アンタの大事なもの、ぜぇんぶ、アタシが壊してやるわぁ!』

ノイズ交じりではあったが、その声は女らしく、ゆらゆらと揺れ動く長い影は女の長髪か。

九鬼は右手の人差し指と中指を揃えて右目の上に置くと、口の中で小さく言葉を紡ぎ、そっと右目の上に置いた人差し指と中指を左右に開くように動かす。
わずかに色味の変化した右目で煙のように揺らぎ始めた女の影を捉える。

「………」

やがて女が姿を消すと、それから間もなく気絶していた編入生が呻き声を上げ、目を覚ました。
最初はぼんやりとした様子でのろのろと起き上がり、首を巡らせ、本当に小さな声で呟く。

『ここ、どこ?…何で、僕、こんな所で…っ、…うっ、ぁぁあっ!?』

しかし、次の瞬間には両手で頭を抱え、苦痛の声を漏らした。
だが、それも数秒で収まり、ぴたりと動きを止めた編入生の口から軽やかとも言えるほど場違いな笑い声が漏れ出す。

『ふっ、…ふ、ふ、ふ。はっ、ははは!』

それは奇しくも先程見たばかりの影の女の様子と酷く酷似していた。

編入生は軽く身なりを整えると何事もなかったかのようにその場から踵を返す。鼻歌交じりに楽し気な様子で呟きながら。

『あと少しかしら。…でも、その前にあの子も欲しいわねぇ。とても綺麗で素敵だし。あぁ、悩ましいわぁ…』

そうして編入生の姿が見えなくなり、しんと静まり返った映像はそこで自動的に停止した。

自治会室に落ちていた沈黙をふぅと吐き出された重たげな吐息が打ち破る。
右目から手を離した九鬼は直ぐに指示を出す。

「紙とペン寄越せ」

その声に反応して仲間が直ぐに紙とペンを九鬼に手渡す。また、その行動を誰も疑問に思うことはない。すらすらと紙の上を走るペンの行方を誰もが黙ったまま見つめる。時間にして一、二分。九鬼の手が止まり、彼等に向けてその紙が公開される。

「至急、この顔の女を調べろ。編入生か理事長の関係者に必ずいるはずだ」

編入生は理事長の身内、尚且つ影の女が口にした名前「タカノリ」は確か理事長の名前だ。九鬼のその言葉にそれぞれが頷き返す。そして、続くであろう九鬼の決定的な言葉を待って九鬼に視線が集中する。

「ただの非常識な編入生かと思ってたが、見ての通りアイツは"憑かれてる"」

「は…っ、久々に来たな」

「そりゃこっちは九鬼さんの結界があるから。雑魚は入って来れねぇだろ」

東校舎は歴史がある分、時折おかしなものが現れる。一般生徒は気付いていないが、それをどうにかするのもこの自治会の役割であった。

「鈴鹿。司が言うには向こうは風紀がどうにかするって話だが、この状況を正確に認識している奴はいると思うか?」

それによってはこちらの関わり方も、先程の動画をどうするかも話は変わって来る。

九鬼にそう尋ねられた鈴鹿は改めて手元の資料を浚い直すと、本校の風紀委員について報告を上げた。

「一人、いますね」

「誰だ?」

九鬼の誰何に鈴鹿は紙面に視線を落としたままその名を口にした。

「逢坂 凌(おうさか しのぐ)、二年。風紀委員長です。彼の実家はこちらの業界でも名の通っている正教会です。ただ、あそこは悪魔祓いや浄化の仕事をメインにしていたかと」

先程、動画で確認した様な憑き物を落とせるかどうかは彼の力量次第になると思います。

「むしろアレに関しては貴方の方が適任かと自分は思います」

すっと紙面から上げられた冷静な眼差しが九鬼に向けられる。それを受けて、九鬼は僅かに考える様な素振りを見せ、口を開く。

「逢坂が司をこっちに寄越したのは偶然じゃねぇのか」

「それはなんとも。ただ、この業界にいて、こちらにそれ関係の関係者がいることぐらいは噂で知っているのでは」

それであの女の霊に狙われていた司を守ってもらう為に、もしくは女から一時的にでも司を引き離す為に逢坂風紀委員長は学園の規則を破ってまで司を東校舎に向かわせたのか。
そして、多分、その真実を司は知らない。司は何も知らない一般人だ。

それらを踏まえた上で鈴鹿が再度、九鬼の意向を確認するように聞く。

「どうしますか?」

その声に九鬼は室内にいる面々の顔をぐるりと確認し、指示を出す。

「逢坂には式神を飛ばして、俺が直に連絡を取る。鈴鹿は甲賀と協力してあの女の素性を洗え。他の連中はいつも通り、校内の巡回を頼む」

「あの、神谷会長の護衛はしなくて大丈夫なんすか?」

「あぁ。司には俺がつく」

ここでいきなり見ず知らずのお前らを付ける方が不自然すぎるだろう。

そう理由を口にした後、九鬼は大事なことを告げるようにもう一度はっきりと己の口で告げた。

「安心しろ。司は俺が守る」

その後、簡単な打ち合わせを済ませ、自治会室をさっさと出て行った九鬼にその場に残された面々は顔を見合わせると好き勝手に喋り出す。

「あのさー、ちょっと不謹慎なことかも知れないけど、言ってもいいか?」

「なんだよ?お前もか」

「あぁ、俺も俺も。ちょっと思った」

「なんか九鬼さん、楽しそうじゃね?ってか、嬉しそう?気合が入ってる?」

「それだけ神谷会長のこと気に入ったってことだろ」

「うちにはいないタイプだし、その前に東校舎のこと考えてくれてるし。寮とか食堂の改装とかしてくれてさ。俺、まだ会長本人に会ったこと無いけど、超良い人って印象あるぜ」

「「それなー」」

「はいはい、無駄なお喋りはそこまでにして仕事に行きなさい」

それから呼ばれた時以外は自治会室及びその周辺に立ち寄らない事。ぴしゃりと告げられた鈴鹿の言葉でその場は解散していく。

「まったく。甲賀、行きますよ」

「へぇい!」

東校舎独自に存在する組織。それは生徒会と風紀委員会を組み合わせた様な組織。その名を東校舎の生徒達は自治会と呼ぶ。そして、現在その自治会の長を務めているのが3年A組、九鬼 恭四郎であった。彼の実家は由緒ある大家…ではなく、知る人ぞ知る地方のお寺であった。







九鬼が三年の教室に戻り、授業を受けること二時間。二年の生徒に案内されて九鬼のいる教室に顔を見せた司は昨日よりも元気な様子であった。だが、まだここが三年の教室であることは気付いていない様子で。

「よぉ、よく眠れたか?」

「おかげさまでな。食堂の件も、誰かさんが余計な気を回してくれたおかげで、ゆっくりし過ぎちまった」

司は自ら九鬼の元に歩み寄ると空席のまま開けられていた九鬼の隣の椅子を引いて、そこに腰を下ろす。九鬼は素直じゃない司の言葉に笑いながら答える。

「そりゃ悪かったな。昼飯は好きなもの頼め。詫びに奢ってやる」

「食堂で一番高いものを頼むかも知れないぜ?」

次の授業を担当する教師が前の扉から入って来る。それを横目に司はにやりと笑って九鬼へ挑発する様な視線を投げる。それを受けて九鬼もまた面白そうに笑って瞳を細めた。

「いいぜ。お前が満足するまで食べさせてやる」

「よし、言質はとったからな」

昼が楽しみだと、ここ最近忙しくてゆっくりとご飯も食べられなかった司は自分でも気づかぬうちに年相応の楽し気な笑みを零す。
そして、授業が始まれば司はきちんと前を向いて、授業を受け始める。
九鬼も教師の声に耳を傾けながら、手元では別の作業を始めた。

机の中から掌サイズの正方形に切られた白い和紙を取り出すと、徐に和紙を折り始める。

「九鬼…?」

その行動に何をしているんだと、司から視線が飛ぶ。
丁寧に和紙を折り、和紙で折り鶴を作り上げた九鬼は、その鶴に人差し指を添えると、口の中で簡単な呪を唱え、最後に作り上げたその鶴を口元に運んで息を吹きかけた。するとその鶴は九鬼の手元を離れ、ふわりと宙に浮く。

「え?」

その現象に司の口から驚きの声が上がる。机の上、すれすれに飛んだ鶴は周囲の人間には見咎められることなく、司の前へと優雅に飛んで行く。机上に広げられていた教科書の上に着した鶴をまじまじと見下ろして司は感嘆した様な声を漏らした。

「凄いな。どんな手品だ?触ってもいいか?」

手品と言われて九鬼は微かに口端を緩める。子供のように興味津々な顔で窺ってくる司に頷き返す。

「それはお前にやる。ただ、調べても良いが、絶対に解体するなよ」

「おぉ」

どうなってるんだと司は許可が出るとさっそく折り鶴を手に取り、引っ繰り返して裏側を見る。それから羽の部分を指でなぞり、糸などが付いていないか確認する。

「なぁ、もう一回。この鶴飛ばせないか?」

タネを見破ってやると、タネなど本当に存在しないのだが、真剣な顔で聞いて来る司に九鬼はにやりと笑みを零して、その話に乗ってやる。

「俺に向かって投げてみろ。お前の方に戻って行くと思うぞ」

なにせその折り鶴、式神は今しがた司用に作ったものだ。司を守るように呪をかけてある。

司は九鬼に向かって紙飛行機を飛ばす要領で折り鶴を九鬼に向かって投げる。すると鶴は九鬼の言葉通り、途中でふわりとUターンして、司の所へ戻って来た。

「すげぇな。どんな仕掛けだ?」

「くくっ…。そりゃ、秘密だ」

九鬼から貰った折り鶴を制服の胸ポケットにしまい、再び黒板に目を向けた司が何とはなしにぽつりと呟く。

「はぁ…、それにしてもこっちの授業は随分と進んでるんだな。応用問題が多いのか?」

「く…っ、はは…!」

「何だ?何がおかしい?」

司の台詞に九鬼はまだ気付いていなかったのかと、零れる笑いを噛み殺し、教科書の裏側を見るように告げる。

「裏?それがなんだって…」

くるりと裏返された教科書の裏には学年と名前を書く欄が存在していた。
そして、そこには名前は書かれていないもののはっきりと学年は記入されていた。
三年と。油性ペンで書かれていた。

「は…?えっ、…お前、三年だったのか!?」

「逆に気付かず授業を受けてるお前が俺には信じられねぇよ」

くつくつと笑う九鬼の顔をじろりと睨み付け、司はやや改まった口調で聞く。

「九鬼、先輩って呼んだ方がいいか?」

「いらねぇよ。呼び捨てでいい」

「そう…か?…というか、初めから知ってたな?」

「何を?」

「俺と学年が違う事だ。そもそもこっちの奴らはネクタイをしてねぇから、誰が何年だかさっぱり分からねぇじゃねぇか」

司は少し八つ当たり気味に九鬼を睨んで言う。

「まぁ、それで不便はないからな。厳しい上下関係とか、こっちは最低限のルールさえ守ってりゃ基本は自由だ」

「最低限のルール?」

「そうだ。学園行事ではネクタイ着用。教師や用務員、学園に関わる大人達には暴力、暴言禁止。礼節を持って接するべし。喧嘩はサシで、立会人をつけること」

そう九鬼の口から告げられた東校舎特有の決まりに司は微かに驚いた顔をしたが、直ぐに平素の表情に戻るとその口元を僅かに歪めて呟くように言葉を落とす。

「うちの連中にも聞かせてぇルールだな」

本校舎にも規則はあるが、その規則を守っている生徒がどれだけいるのか。本校舎には厄介な親衛隊と呼ぶ組織が複数存在するし、バレなければ何をしても良いと、それが普通のことだと思っている間違った方向性で頭の良い生徒達も存在する。

自嘲するように陰りを帯びた表情を見せた司に九鬼は司の吐いた言葉の意味を深く追及することもなく話を続ける。

「まぁ、東校舎にいる間はお前もこのルールを守れよ」

にやりと笑った九鬼は気安い態度で司の頭に右手を伸ばし、司の頭をぽんぽんと軽く叩いた。

「なにすっ…」

「ってことで、お前もその堅苦しいネクタイ外していいんだぜ。俺にため口きいても怒らねぇし。しばらくはここで羽でも伸ばしてろ」

さすがに生徒会長に選ばれるだけあって、他の生徒達から頼られる事はあっても、こんなに気安く頭を叩かれたり、年下扱いされたことはない。司は分かりやすく頬を紅潮させると九鬼を睨んだ。

「だったらちゃんと二年の教室で授業を受けさせろ」

司にとって羽を伸ばすとは、普通に授業を受けることもそこに含まれているらしい。
まぁ、東校舎に来てわざわざこっちで授業を受けると言っていたぐらいだ。羽を伸ばすイコール全てを放棄してサボったりとは、司の中ではそうならないらしい。

九鬼は司の要求に苦笑を浮かべると、明日から二年の教室に連れて行ってやると約束した。

「なんで明日なんだ?次の授業からでもいいだろ」

司のもっともな反論に九鬼は真実を織り交ぜて返す。

「ここは俺のクラスだから適当でもいいが、二年の教室には準備が必要だ」

「はぁ…?よく分からんが、準備がいるなら待つしかないな」

飛び込みでやって来たのは自分の方だと司は自覚している。なので、九鬼の言い分に少し首を傾げながらも最後は納得して大人しく受け入れた。



その後は特に変わった事も無く、司は昼休みに入ると九鬼に案内されて東校舎内にある食堂へと足を運び、そこで宣言通り九鬼に昼飯を奢ってもらう。

「牛丼大盛って、お前どんだけ肉を食いたかったんだよ」

「いいだろ。シンプルで」

向かい合う形で席に着いた九鬼の目の前には日替わり定食。司の前には牛丼の丼があり、牛肉がこんもりと盛られていた。

「いただきます」

「…いただきます」

箸を右手にさっそくご飯を食べ始めた司に倣って九鬼も定食を食べ始める。

(まっ、司の元気が出たなら良しとするか)

それ以上は何も言わずに、美味しそうに牛丼を食べ進める司の事を眺めながら九鬼も箸を進めていった。なお、二人は食堂にいた他の生徒達からちらちらと注目を集めていたが、その大半は何だか温かい視線だった。

「あれが噂の会長だろ?」

「九鬼先輩が世話焼いてる」

「手出し厳禁。俺達は遠くから見守ろうな」

「もう付き合ってるって本当か?」

などなど、一部誇張された噂が生徒達の間に出回っていたとか、いないとか。



そんな調子で午後からの授業も三年の教室で受けた司は、放課後になるとまた少しばかり睡魔に襲われていた。

「おい、大丈夫か司」

「大丈夫じゃねぇ。眠い」

寝坊までしてきたのに、この身体はまだ睡眠を必要としているのか。司は落ちそうになる瞼を何とか持ち上げ、顔を覗き込んできた九鬼を見返す。

「こりゃ仕方ねぇな。上で少し仮眠を取ってから帰るか」

「うえ?」

何を言っているのか意味が掴めず、司はぼんやりとした調子で聞き返した。

「あぁ。お前が歩けるうちに行くぞ」

そう言われて三年の教室を出た司は九鬼に腕を掴まれて歩き出す。三年の教室が並ぶ廊下を突っ切り、階段を上に上って行く。司がふらふらしていたせいか、擦れ違う生徒達は自然と道を開けてくれる。また、本校舎の生徒達と違って、こちらには司の姿を見て騒ぐ生徒や奇異の視線を向けて来る生徒はいない。ただほんの少し驚いた顔をする生徒はいても、直ぐにその視線は切れる。

「なんか、いいな、ここ。驚くぐらい普通でいられる」

眠気に襲われて回らない頭が、素直に思った事を口走る。それに対して九鬼は軽い調子で言い返す。

「だったら遊びに来いよ。今回の件が片付いたら、週末とか。お前の都合がつく時に。また俺がお前の指名を受けて相手してやるぜ」

この東校舎で待っていてやる。

上から目線の物言いに司も笑って返す。

「当たり前だ。俺からの指名を受けて待ってないなんて、ありえないだろ?」

「おー、おー、言うな。っと、ここだ」

東校舎最上階。目の前の扉を九鬼が開けば、そこはごちゃっとしたものが多い教室の様だった。だが、一般的な教室と違って足元にはカーペットが敷かれ、部屋の片隅は和室を模した畳敷きの一角がある。その反対側には何だかよく分からない機械やコード類が乱雑に置かれていて、窓辺に近い壁に押し付けられるように大きなソファが設置されている。また、部屋の中央には机が六つ、くっ付けるようにして置かれており、その上には書類棚や筆記用具、オカルト雑誌にコミックス。クロスワードにゲーム機やトランプといった遊戯盤。それぞれの椅子の上にはクッションや毛布、ぬいぐるみやよく分からない置物まで乗っている。一応、何か会議をする場なのか、部屋の中には黒板がわりだろう、髪の長い女の絵の落書きのされたホワイトボードがあった。

「…なんだ、ここ?」

色々考えてはみたものの、とりあえずここは司の知らない部屋であることは確かであった。

なんだか、子供の玩具を詰め込んだような部屋だ。

「そう細かい事は気にすんな」

ほら、そこのソファで仮眠をしていけと。司は九鬼に腕を引っ張られるまま、壁に押し付けられた大きなソファの前まで連れて行かれる。

「あとは…」

司をソファに座らせ、九鬼は椅子の上に無造作に置かれていたクッションを一つ手に取る。それを司に向けて軽く投げた。

「わっ!?いきなりなにすんだよ」

「俺の部屋にあるのと同じクッションだ。お前、それ気に入ってたろ」

つまり、これは九鬼の私物か?

「ベッドには劣るが仮眠を取るには十分だろ」

今ここには俺しかいない。少し寝ておけと、九鬼はクッションの無くなった椅子を引いてそこに腰を下ろす。

「んな、いきなり寝ろと言われて寝れるわけ…」

「司は保健室の方が良かったか?あそこなら添い寝もしてやれるしな」

「ふざけ…っ、ここで十分だ!寝る!」

司を見る眼差しは冗談ではなく、優しさを帯びていた。それに気づいた司は自身が本心から心配されていることを感じ取ってしまい、途中で言葉を詰まらせると、ただ不貞腐れた様な声を出し、九鬼に背中を向けてソファに横になる。腕に抱いたクッションで顔を隠し、ソファに身を沈めた。途端に思い返した様に襲ってきた睡魔に司は言忘れていたことを思い出して、眠りに落ちる寸前その言葉を口に出して、眠りに落ちていった。

「九鬼、ちゃんとそこにいろよ。…帰る時は俺を起こせ」

ふにゃふにゃと空気に溶けるように消えていった語尾に、九鬼は声には出さず笑う。

「こいつ、可愛すぎだろ」

本当は司が、ここがいい。普通でいられると零した時、九鬼は心の中で「だったらずっとこっちにいればいい」と思った。しかし、同時にその言葉を司は望まないだろうとも思った。なぜなら、司はこちらもあちらも関係なく、平等に並べて、判断を下せる真摯で真面目な男だ。今更、その役職を放り出してどちらかに肩入れする様な真似はしないだろう。

だから、時折でいい。こちら側へ来て、息を吐けばいい。いつかその時間を惜しいと思ってくれれば。

「俺の勝ちか?」

そっと椅子から立ち上がり、無警戒で眠る司の頭を九鬼はそっと優しく撫でた。



それから司が眠っている間にスマートフォンを使って自治会のメンバーに新たな指示を出す。

『今夜中に二年の教室全ての結界を強化しておけ』

「うわっ、久々に来た!会長の無茶振り!」

「九鬼先輩が二年の教室で神谷会長と一緒に授業を受ければ全て済むんじゃねっすか?」

「おっ、それいい案―!さっそく九鬼さんに返信を…」

『俺はそれでも構わねぇが、司が気にするだろう』

「あっ、はい…」

「スンマセン…」

「俺ら考えが浅くて。九鬼さんの第一優先は神谷会長の気持ちなんすね」

そんな感じで我らが九鬼自治会長から指示を受けた自治会メンバーは、真夜中に東校舎の中をこそこそと徘徊していたとか。







「司。先に風呂入っていいぞ」

「そう言って昨日も先に入らせてもらったが。いいのか?」

東校舎に存在する自治会室、司は目が覚めてからただのサボり部屋だと聞かされた教室を後にして、寮に帰寮してから九鬼と共にまたゆっくりと食堂で夕飯を食べて、今。九鬼の部屋のリビングで寛いでいた司はスマホを手に取った九鬼に風呂を促されていた。

じろりと九鬼を窺う様にして見た司に対して、九鬼は手にしたスマホを左右に振って言う。

「良いって。自分の部屋だと思って好きにしろって言ったろ」

服も洗濯してあるから好きなものを着ろ。

「俺はこれから少しばかり電話するから」

「…それなら、ゆっくり入って来る」

「逆上せるほど入んなよ。自分で思うより体調はまだ万全じゃねぇんだ。風呂から上がったらこっちに顔出せ」

「…おぅ」

てっきり電話をするから席を外して欲しいと言う意味かと思ったが、九鬼の言い方からすると特に深い意味は無かったらしい。ただ単に用事のある九鬼と時間を持て余している司。ヒマしてる方が先に風呂に入った方が効率的だという、それだけの話であったか。
頷いた司は部屋着の置いてある寝室、九鬼の私服だが、寝室に立ち寄ってからバスルームへと向かった。

「ったく、余計な気遣いすんな」

九鬼は苦笑を浮かべるとそう呟き、非通知で掛かってきていた電話に折り返す形で連絡を入れた。

「もしもし…」

『同業者だな?私に式神を寄越した』

九鬼からの折り返しの電話に相手は直ぐに出た。本校舎で風紀委員長を務める逢坂 凌(おうさか しのぐ)2年は、名乗る事も無く緊迫した様子で一方的に話し出す。

『今は時間が惜しい。礼儀的な文句は後でいくらでも聞く。単刀直入に言うが、現在例の編入生の所在が掴めない。今日の放課後からだ』

重要な情報を先に投げてきた逢坂に九鬼は逢坂の評価を高くする。無駄の無い会話に頭の回転も速そうだ。さすがは本校舎の風紀委員長か。馬鹿ではなさそうだ。

『神谷の身の回りに気を付けてくれ』

「は?」

続いた忠告めいた発言に九鬼は眉をしかめ、鋭く聞き返す。

「それはどういう意味だ?何故、アイツが狙われる?」

敵の正体はまだ分かっていないが、逢坂には司が狙われる、執着される心当たりがある様子だった。九鬼の鋭い問い掛けに逢坂はやや躊躇った様子を感じさせながらそっと声を潜めるように口を開く。

『神谷は寄せやすい体質とでもいうのか、人として魂が綺麗すぎる。だが、逆にそれ故、雑魚は近付けない』

「本人にその自覚は?」

ないだろうと思いながらも九鬼は確認の為、逢坂に聞き返す。

『ないだろう。あれば食堂の…っと、何でもない。今のは忘れてくれ』

「…あぁ」

食堂?…食堂と言えば、司が一服盛られたことがあるとか。無意識にトラウマになっている件か。そして、その件を逢坂が知っているとなれば、それはこちら側の絡みがあったとみるべきか。その上で逢坂が始末をつけたと考えれば、元から司に好意を持っていた人間を悪魔や淫魔の類が邪な方向へその人間を唆し、事を起こしたか。

『とにかく、そちらで神谷を保護してくれ』

九鬼の意識を引き戻すように重ねて頼む逢坂の口振りからは、司が言っていた様な仲の悪さはまったく感じられない。

『編入生が招き入れた雑魚共はもう間もなく祓い終わる』

それでおかしくなっていた役員共も元に戻る。少しばかり記憶操作も必要だが、それは得意分野だ。

そこまで一息で言い切ると逢坂は僅かに呼吸を置いて、真剣な様子で口を開く。

『正直、神谷には一週間と嘘を吐いた。見栄を張った、とでも言うのか。一般人である神谷を二度も危険な目に合わせるわけにはいかない』

「あぁ」

『今は私のプライドより人命が第一優先だ。…恥を承知で頼む。そちらで編入生を見つけ次第、即座に祓ってくれ。私も手を尽くすが、正直なところ祓いはあまり得意な方ではない』

赤裸々に内情を告げた逢坂に九鬼はその思いを汲んで、余計な言葉は重ねず端的に頷き返す。

「承知した。こちらも警戒を強め、手の空いている人間を捜索にあたらせる」

『―感謝する。この借りは必ず返す』

司並みに律儀そうな逢坂の返答に九鬼は微かに口端を緩めると逢坂が電話を切る前に言葉を滑り込ませた。

「気にすんな。後輩を助けてやるのは先輩の務めだ」

その後、鈴鹿からメールで上がって来た報告に目を通していると司が風呂から上がって来た。それと交代する形で九鬼は風呂へ行き、二人は寝る前の三十分ばかり雑談を交わす。

「…っと、そろそろ寝ねぇと明日に響くな」

ちらりと室内の時計に目をやった九鬼がそう言ってソファから立ち上がる。司も時計に目を向け、それからソファから立ち上がった九鬼に視線を流して口を開く。

「今夜は俺が此処で寝る」

昨日に引き続き部屋の主を差し置いてベッドを借りるわけにはいかない。

二度目の譲らない発言に九鬼は苦笑を浮かべて、今度はその意志を尊重するように頷き返した。

「分かった。クッションと毛布を持って来てやる」

ただ、本当に眠れなかったり、無理そうだったら言え。場所を交替する。

「…おぅ」

何から何まで世話をされているような感覚に司の返事が僅かに遅れる。
一度リビングを出て行ったその背中を見送り、司は妙に落ち着かない心地に首を傾げた。

悪くはない。嫌でもない。ただほんの少しそわそわとして落ち着かない。そんな感じが胸の奥にある。

「…そうか。誰かの部屋に泊るのは小等部以来か」

だから落ち着かないのだ。昨日はそんなことを意識する前に眠ってしまったから。司はそう己の中の感情を完結させると寝室から戻って来た九鬼から枕がわりのクッションと毛布を受け取る。

「さんきゅ」

「あぁ…。じゃぁ、俺は部屋の方にいるからな。夜中でも何かあったらちゃんと起こせ」

「俺はガキか」

重ねて言ってくる九鬼に司は呆れた様な顔で不満そうに呟く。それに九鬼は笑っただけで。しまいには司の頭を子供にするかのように、ぽんぽんと軽く叩いて来る。

「おいっ!」

「おやすみ、司」

「……っ、おやすみ」

九鬼は分かっていてやっている。絶対に。
自分が不満だと思う事をこいつは。

不服そうにしながらも、律儀に就寝の挨拶を返してきた司に九鬼はますます、やはり司は可愛いとその笑みを深くしたのであった。




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